Mag-log in翌朝、私たちは改めて書斎に集まり、長野への出発前の最終確認を行った。 テーブルには、昨夜二人で書き込んだ移動計画が置かれていた。律が赤いペンで記した集合場所の横に、私が加えた連絡先が並んでいる。彼と目が合うと、少しだけ気恥ずかしかった。「長野へ行きます。早見美津子さんが証言を拒む可能性もありますが、それでも会いますね?」「はい、会います」「……責めるためじゃなく?」 その問いは、私を止めるためのものではなかった。私は自分の左手首の薄くなった赤みを一度見てから、正直に答えた。「責めたい気持ちがまったくないと言えば嘘になります。二十四年間黙っていた人なら、私を死んだことにした紙に署名した人なら、どうして、と言いたいです。……でも、聞く前から裁くのは、私が三年前に一番されたくなかったことですから。会ってから考えます」 律は短く息を吐き、目元をわずかに和らげた。「それ、かなり不安なんですが」「私もです。だから、律さんが隣にいてください」 私が微笑んで言うと、律の瞳に温かい光が灯った。 その時、相良さんの端末が短い通知音を鳴らした。「現地の先遣班から連絡が入りました。信州南部の早見美津子氏の入居施設宛てに、昨夜から今朝にかけて、複数の名義で転居手続きの照会が殺到しています」 隆一の告白が録音に残った頃から、康生側は次の証人を動かそうとしていたのかもしれない。照会の勢いは、私が襲われたあとも弱まっていないようだった。「栞」 律が私の名を呼んだ。「行くなら、私も最初から最後まで隣に行きます」「危ないからですか?」「それもあります。……それに、あなたがまた誰かに連れていかれるところを、二度と見たくない」 その声は命令ではなかった。私の自由を尊重した上で、私を決して手放さないという真っ直ぐな独占欲だった。「止めないんですね」「止めても、あなたは自分の足で行くでしょう。私はそんなあなたに惚れたんですから、隣で走るしかありません」 相良さ
自室へ戻ったあとも、私は眠ることができず、机の上でパソコンを開いていた。 広報責任者から預かっていた記者会見の想定問答集が目に入る。『朝霧氏は九条家の相続を求めているのか』『九条葵氏本人の意思確認は取れているのか』。柔らかな語尾で人の傷へ指を入れる質問ばかりだった。 私は手首の医療写真だけを公開資料の束から外し、白い画面の先頭に、会見の最初の言葉を自分の指で打ち込んだ。 ――私は、誰かの家の都合で名前を変えられた経緯について、お話しします。『被害』とも『復讐』とも書かなかった。けれど、その一行を入力したところで手が止まった。書斎に残してきた律の、今にも泣き出しそうなほど苦しげだった顔が瞼の裏から離れなかったのだ。 律があんな声を出すほど怖かったことは、今なら分かる。けれど「屋敷から出るな」と言われた時の息苦しさも、なくなったわけではない。どちらかが我慢するだけなら、また同じことを繰り返すだろう。 私は画面を開き直し、長野へ向かう車の台数と同行者の名前を書き出した。危険をないことにはできない。なら、怖がっている二人が納得できる条件を、一つずつ考えたい。 そう思って立ち上がりかけた時、部屋の扉が静かにノックされた。「……栞。私です。少しだけ、よろしいですか」 扉を開けると、素顔の律が車椅子で待っていた。部屋へ入ると、彼は私のデスクの前で止まり、深く頭を下げた。「……先ほどは、すみませんでした」「顔を上げてください、律さん。私も、あなたがどれほど怖かったのか、ちゃんと聞ききらずに部屋を出ました。でも、出かけるかどうかを私抜きで決められるのは、やっぱり嫌です」「……あなたに何も相談せず、決めつけたのは私の間違いです」 律は顔を上げ、私の傷のない右手をそっと両手で包んだ。「あなたの言ったことを、一人で考えました。私の恐怖を小さくするために、あなたを屋敷へ閉じ込めるのは違う。……ただ、今でも危険が怖くないわけではありません。一緒に、条件を考えてもらえますか」 律は懐から一枚の紙を取り
張り詰めた空気に、高瀬さんと相良さんが静かに目配せをし、「少し席を外します」と書斎を出ていった。 扉が閉まり、広い書斎に私と律の二人だけが残る。机の上のグラスの水面に、天井の灯りが細かく揺れていた。律が私を心配して言っていることは分かっている。今朝、彼の手が氷のように冷たかったことも覚えている。それでも、私は頷くことができなかった。「……律さん。『私の安全のため』と言って、私の行動を勝手に決めないでください」 私は左手首の赤い痕を指で押さえながら、震える声で言った。「如月家にいた頃、お父様もお母様もいつもそう言いました。『栞のためを思って言っているんだ』『家の外は危ないから、お前は黙って言う通りにしていればいい』って。そうやって私の選択肢を一つずつ奪って、最後には私の名前も人生も、私のいない場所で勝手に決められました」 律の瞳が、打たれたように揺れた。けれど私は、胸の奥から溢れる言葉を止められなかった。「あなたが隆一さんたちと違うことは分かっています。私を愛してくれているから、守ろうとしてくれているんですよね。……でも、一度怖い目に遭ったからといって、安全な屋敷の奥に閉じ込められて、自分の出生の真実を誰かに代わりに調べてもらうだけなら、私はまた『誰かに管理される人形』に戻ってしまいます! そんなの、息が詰まってしまいます……!」「あなたを人形になどしていません! 私はただ、あなたに無事でいてほしいだけです!」 律が車椅子の肘掛けを強く叩き、苦しそうに顔を歪めた。いつも整っている彼の眉間が深く寄せられ、声が掠れる。「……三年前の事故以来、この脚は思うように動きません。杖で歩ける時もある。でも、とっさに走れるわけではない。怪物と呼ばれて人が離れていくのは、かえって都合がよかった。そんな私が、自分の意思で失いたくないと思ったのがあなたでした」 律は膝の上に置いた拳をゆっくり開いた。足元を見つめる彼の横顔が、こんなにも苦しそうなのを私は知らなかった。「それなのに今朝、あの男があなたの腕を掴んだ時、車椅子からすぐには立てなかった
榊邸へ戻る車の中で、私は手袋を握ったまま手首の赤い跡を見ていた。 窓の外では夕方の街がいつも通りに流れている。買い物袋を下げた人や信号を待つ人たちは、病院の前で何が起きたかなど誰も知らない。車内で相良さんと高瀬さんが連絡を続ける中、律だけが何度もこちらを見た。「……同じことを三回聞きましたよ、律さん。怪我は大丈夫です」「……すみません。あなたを見失うのが怖い。いつも何もかも間に合うような顔をしていても、本当はそんな余裕などないんです」 車が榊邸の門をくぐった時、律はかちりと留め具を外して黒い仮面を脇のシートへ置き、私の頬に温かい掌を添えて、震える唇へ浅く口づけを落とした。その唇が驚くほど熱く、そして必死だったことに、私は胸の奥が強く締めつけられた。 けれど、屋敷の書斎へ入った直後、その空気は一変した。 待ち受けていた情報管理部の主任と相良さんが、長野の調査結果をモニターに映し出したのだ。「長野県内の医療法人関連施設に、旧姓・狭山の記録が見つかりました。現在名は早見美津子、七十二歳。信州南部の小さな町の介護付き住宅に入居しています。ただし、昨夜から康生氏側と見られる複数の名義で、転居手続きの照会が入っています」「康生さん側と見られる人たちが、昨夜から早見さんの転居先を探っているんですね。隆一さんの録音と関係があるかは、まだ分かりません。でも、早見さんに危険が及ぶ前に動きたいです」 私はモニターの文字を見つめ、迷わず立ち上がった。「記者会見は、早見さんに会って死産偽装の証言を確認してから開きましょう。明日一番で、私が長野へ行きます」 室内の視線が一斉に集まった、その瞬間だった。「――いけません。あなたが長野へ行くことは認めない」 書斎の空気を断ち切るように、律の低く強い声が響いた。 私は驚いて律を振り返った。高瀬さんも相良さんも手を止めている。素顔の律の瞳には、これまで私に一度も向けたことのないような硬い拒絶の色が浮かんでいた。「律さん……? どうしてですか。康生さんは証拠より先に人を動かす人です。今す
病院の面談室へ移されたあと、駆けつけた医師が私の左手首を診察した。 骨折や捻挫はないが、白い皮膚の上に、男に強く掴まれた指の跡がくっきりと赤い帯になって残っている。警察へ提出する可能性があるなら湿布だけで済ませない方がいいと説明され、医療用の写真撮影の同意書に署名した。自分の手首の痛みが、診療録の中で『左手関節部圧迫痕』という無機質な文字に変わっていくのが、どこか他人事のように見えた。 葵さんとの面会は中止――正確には延期になった。悔しかったが、病院の正面玄関でこんな襲撃が起きた以上、母の安全を最優先にするしかなかった。「高瀬さん、先にこれを。窓越しに撮った動画です。運転手の端末画面が映っています」 私がスマートフォンを渡すと、高瀬さんと相良さんが即座に画面を確認した。「『KJ-PS』……九条康生氏の私設秘書室で使用されている内部略称と一致します。送迎会社から一次回答も来ました。外部の秘書代行システムを経由していますが、接続元IPと認証コードの発行先が康生氏の私設秘書室の管理端末です」 相良さんがさらに画面をスクロールし、目元を鋭く細めた。「待ってください。今日の送迎予約ログの内部備考欄に、奇妙な付帯コードが残っています。『SYM_RLC_NGN』……KMS系の秘書代行で過去に使われていた業務タグと照合すると、SYMは狭山(Sayama)、RLCはリロケーション、NGNは長野県内の拠点コードと見られます」 私は椅子から身体を起こした。「狭山って、二十四年前の白桐産院の看護師長ですよね!? なぜ私の拉致未遂の予約と同じ端末に、看護師長の移転タグがついているんですか」「発注元の管理端末が、朝霧様の移送手配と、長野にいる旧看護師長・狭山氏の転居手配を同じ作業枠で処理していた可能性があります。康生氏側が、証人である狭山氏を先に動かして隠そうとしているということです」 高瀬さんと相良さんが警察および現地調査班との連携に動く中、私はふと、隣にいる律がさっきからずっと黙っていることに気づいた。 律は黒い仮面の奥から、私の左手首に残る赤い圧迫痕だけをじっと見つめていた。
だが、次の呼吸で、私の側のドアが半分開いた。患者のふりをしていた男が、その隙間から私の左腕へ手を伸ばした。 車内で律が上体を起こす気配がした。相良さんがもう一人の男へ向き直るのが、窓越しに見えた。 ドアの取っ手には、係員のような顔をした三人目の手がかかっていた。窓越しの運転手へ注意を向けている間に、私の側へ回っていたのだ。 手首を掴まれる。 冷たい指だった。 身体が、一瞬で昔の階段へ戻りかけた。 掴まれる。引かれる。倒される。見られる。 違う。 今は違う。 私は肩を引かず、逆に手首を内側へ回した。コンビニの夜勤で、酔客に腕を取られた時、店長から一度教わった外し方だ。完全には外れない。けれど、相手の力がずれた。「相良さん」 声は震えていた。 でも、出た。 次の瞬間、相良さんが男の手首を押さえ、車のドアから引き離そうとした。男が踏ん張り、靴底が舗装を擦った。 律が車内から低く言った。「朝霧さんから手を離せ」 声が荒いわけではなかった。 それなのに、男の指が一瞬だけ強張った。 車椅子に座っている。黒い仮面で顔を隠している。噂に守られ、噂に閉じ込められてきた人。その人の低い声が、今は私の腕に食い込む指を止めていた。 男の指が緩んだ隙に、私は掴まれていない右手で、スマートフォンのカメラを窓の外へ向けた。 録画は続いている。画面の端に、偽送迎車のナンバーと、窓の外にいる運転手の端末が映っていた。「その画面、消さないでください」 言ってから、ようやく左腕が痛いことに気づいた。記録を残さなければと考えている自分が、他人のようだった。 自分の声が、病院前の空気に響く。 窓の外の運転手が、反射的に端末を伏せようとした。 相良さんは私の腕を掴んだ男の手首を押さえたまま、運転手に「そのままで」とだけ言った。 私は録画画面を見て、ナンバーが入っていることを確認した。「今、表示されてる予約番号と発注元、見えています」 録画画面の文字が揺れていた。左腕を掴ま
「律様、お時間です」 低い声が、扉の外から響いた。 広い執務室の奥で、榊律は窓の外に背を向けて座っていた。 机の上には、如月家に関する調査資料が並んでいる。 その一番上に、朝霧栞の写真があった。 コンビニの制服姿で、視線を逸らすように横を向いている。ひどく疲れた顔をしているのに、背筋だけは真っ直ぐだった。 律は写真の端に指を置いた。 三年前の豪雨の夜。 高架下で膝を抱えていた少女の横顔を、彼は覚えている。 名前を名乗ることも、声をかけることもできなかった。 ただ傘を差し出した。 そのあと彼女がどこへ消えたのかを、ずっと探していた。 「やっと、見つけ
司は廊下の壁際に立ち、こちらを見ていた。 三年前より少し痩せたように見える。 けれど、きちんと整えられた髪も、上質なスーツも、昔と同じだった。 何も変わっていない。 そう思ったのに、胸の奥だけが一瞬、昔の痛みを覚えてしまった。 「栞……」 呼ばれた名が、廊下に落ちる。 私は足を止めなかった。 「話があるんだ」 司が一歩踏み出す。 その指先が、私の袖をかすめた。 反射的に振り払った。乾いた音が、静かな廊下に響く。 「今、あなたと話すことはありません。私は如月家の人間でも、あなたの婚約者でもありません」 司の顔がこわばった。 「栞、俺は……」 「
病院の個室には、消毒液の匂いと、心電図の小さな音が満ちていた。 ベッドの上の静江さんは、記憶の中の人よりずっと小さくなっていた。 頬は痩せ、手の甲には細い血管が浮いている。酸素マスクの下で、唇だけがかすかに動いた。 「静江さん」 名前を呼ぶと、まぶたが震えた。 ゆっくり開いた目が、私を捉える。 濁りかけた瞳の奥に、ほんの少しだけ昔の光が戻った。 骨ばった手が、シーツの上を探るように動く。点滴のチューブが、白い布団の上でかすかに揺れた。 私は慌てて、その手を両手で包み込んだ。 驚くほど冷たい。 それなのに、弱い指先が私の手を握り返した。 「し……お……り
午前二時過ぎ。 私を捨てた父が、コンビニのレジの前に立っていた。 「栞、少し付き合え」 自動ドアが閉じる。外の湿った夜気が途切れ、店内には揚げ物の油と、温めすぎたおでんの匂いだけが残った。 夜勤の店員は私一人。レジ横のホットスナックケースが、じり、と小さく音を立てている。 如月隆一。 如月グループの代表で、かつて私が父と呼んでいた人。 三年前、私を家から追い出した男だ。 私はバーコードリーダーを静かに置いた。薄い手袋越しの指先が震えている。それが、何より腹立たしかった。 「……何の御用ですか」 「話がある」 「申し訳ありません。雑誌と公共料金のお支払いでし







